「相対感覚」を持つということについて
最近「相対感覚」ということについて考えている。それは何かと“比較”せずにはいられない人間の性質を自覚し、コントロールすることだ。
「相対感覚」とは
幸福感を左右する比較の性分
他人との比較することで生まれる不幸
この比較対象を意識すると、とても適当なことがよく分かる。そして苦しみの構造が見えてくる。これでは当然苦しみを感じやすくなる。
自分に近く、目立つ人が設定されやすい
根拠のない同年代に脅かされている
そして身近に実際にいる人ではなくても、僕らは比較対象をもつ。その最たるものが「同世代」だ。
「ハチロク世代」「ゆとり世代」「団塊世代」「バブル世代」などなど、昔から世代は必ずといっても括られてきた。それ自体には問題はない。その時代に生まれたことやその時代に受けたことは事実だからだ。問題はその世代の特徴のイメージ付けである。
これはメディアが大きく絡んでいて、「この世代はこういう特徴があります」「この世代でこんな有名人がいます」といったことを頻繁に発信している。自分の世代のイメージを強く僕らは抱えている。特にインターネットのメディアが普及し、同年代が集まるメディアには各人の状況が否応がなく見せつけられる。自分と同世代の人が起業していたり、テレビに取り上げられている。そういった状況を見て焦ったりすることはよくあることだ。
しかしこの同年代のイメージは極めて曖昧なものだ。メディアが語る世代論はわかりやすさを意識し、特徴を無理矢理ひねり出した、偏ったものがほとんどだ。その特徴に当てはまらない人は山ほどいる。キレる世代だからといって全員が全員怒りぽっくてナイフを衝動的に突き出すわけではないし、バブル世代がみんな札束に溢れた財布を持っているわけではない。当たり前だが、それに当てはめようとしている自分がいる。
また同年代として取り上げられる人は、成果を残したすごい人か、反対にてんでダメな人かのどちらかで極端なことが多い。それを比較対象にするのは、極めて怖いことだ。僕と同年代にはメッシや市原隼人などがいる。
1987年生まれの有名人!我々が最強の世代であることを証明してやる! - 数学は中二で卒業しました
または社会人になったが離職しニートをやっている同世代もいて、テレビに取り上げられていた。これを見てすごいとかダメだな、とか思うことにあまり意味は無い。たまたま彼らが同世代だっただけに過ぎないからだ。他の世代でも同様のことだ。
以上のことをふまえ、無意識に行っている他人との比較は幸福感の向上を阻害していることを意識すべきだ。
比較対象を他人から“過去の自分”にすること
ではどうすべきか。それは他人との比較から、自分との比較に"意識的"に変えることだ。
他人と比較したところで自体は何も変わらない。それが不幸を生んでいるのならば即刻止めるべきだ。僕らは究極的には他人には絶対にコンプレックスを持たざるを得ない。上には上がいる。県で一番になったところで、日本一がいる。日本一になっても世界一がいる。世界一になったとしても、過去の偉人を引っ張りだしたら僕らは絶対に勝てない。
そうしてネガティブに思うなら、過去の自分自身と比べてどうかを問題にしたい。何が出来てなくて、何が出来るようになったかとの比較には意味がある。この自分との比較にコンプレックスは生まれない。純粋な成長実感と反省が生まれる。
こんな言葉がある。イギリスの探検家ラポックの言葉だ。あくまで他人は他人であり、自分は自分であるという割り切りが重要だ。
他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、それは恥ではない。
しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは立派な恥だ。
まとめ:まずは比較していることを自覚することから
自己啓発本に書かれてあるようなことと思われるかもしれないが、より深い哲学領域と個人的には思っている。
また誰もが知っていることでもあるが、意識してコントロールしている人は多くはないだろう。
この相対感覚をもつと割と人生過ごしやすくなるのではないかと思い、書いた。個人的に仏教を学んでいるので、その影響は大分大きい。
もちろん口で言うほど簡単なことではない。他人との比較は性分である以上、避けることはできない。最初から過去の自分と比較し成長実感を得ることは容易いことではない。
だからこそ、まずは比較している性分を意識し、何と比較しているかを内省する「相対感覚」という概念を知ってもらうことが大事と思った。今もし何かネガティブな感情に支配されていたら、何と比較し自分をそう思わせているのか、目をつむって考えてみて欲しい。何か見えてくるものがあることを願うばかりだ。