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「相対感覚」を持つということについて

最近「相対感覚」ということについて考えている。それは何かと“比較”せずにはいられない人間の性質を自覚し、コントロールすることだ。

 
ハードな人生を乗り越える上でとても大切な感覚としてこの「相対感覚」はとても大事なことなんじゃないかと最近強く思う。
 
内省的なことをしょっちゅう考えているが、最近外に出せてなかったので久々に書こうと思う(突然なんだと思われるかもしれないが、こういう哲学っぽいことを考えることは好きだったりする)。生きづらさを抱える人の一つの処方箋にでもなれれば嬉しい。また読む人にちょっとでも示唆を与えられれば幸いだ。

「相対感覚」とは

僕らは比較相対の世界に生きている。普段意識はしていないが、よくよく考えると、人は何かと比較しないと生きていけない存在ということが分かる。
 
例えば長さ。ペンが長いか短いかを語るとき、無意識的に僕らは何かと比べている。自分の身長の170cmが高いか低いかは、それだけで語ることは出来ない。170cmは170cmでしかない。小学生3年生の女子の平均身長と比較すれば随分と高いだろうし、NBAの選手たちと比べれば大分低い部類に入るだろう。基準が存在しなければ物の長短は語れない。
 
長短だけではなく、物の高い安いや重さ色もそうだ。成績の優劣もそうである。比較対象がなければ、僕らは物事を語る事ができない。何かと比べることで、物を形容し定義することができる。比較相対の世界に生きているということであり、ここから逃れることはできない。
 
この僕ら人間の常に比較しなければならない性分を自覚するがまず最初である。
 

 

極めて当たり前のことだが、実はあらゆる幸せや苦しみもこの性分が根本に関わっている。この性分の自覚が生きる上でとても大事だと思う。
 

幸福感を左右する比較の性分

この比較せずには生きられない性質において大事なのは、物の長さ重さではない。それらは問題としては些細だ。重要なのは、自身の幸福感である。言葉を変えれば、充足感、自己肯定感あるいはリア充度ともいえるだろう。
 
僕らが生きづらさを覚え、不幸を感じる時、そこには無意識に比較対象が置かれている。これが苦しみの原因になっている。
 
仕事の覚えが悪く、上司に叱責されたとき。ずっとバカやっていた友達に実は彼女がいて結婚することを告げられたとき。飲み会を呼びかけても誰も反応してくれないとき、刺身にあたって5日間腹痛でトイレから出られなくなる、など何でもいい、身に起こる辛い出来事を考えてみる。その物事自体はもちろん辛いことで、そこに強いストレスがあるのは当然である。痛みや怒りや悲しみがあるだろう。
 
しかし注目したいのは、その後に来る「不幸だ」と思う感情である。何か直面したときに不幸を感じるわけではないのだ。その重圧がフッと落ち着いた後にやってくるときである。そのときにようやく冷静となり、"比較"が始まる。
 
「 アイツは上司から認められ表彰されたが自分は怒られている。なんて惨めなんだ」
「あの人は自分よりも年下なのに可愛い格好が似合ってる」「同級生はみんな健康なのになぜ自分だけ…」といった具合に、他人との比較合戦が無意識ながら活発に動いている
 
つまり幸福感とは比較相対が生み出したイメージと言える。比べるものが変わればどうとでも変わるものだ。もちろん悲劇が悲しみを生むわけであり、成功経験が喜びを生むのだが、それらは一時的な感情であり、続かない。問題にしたいのはそれの受け止め方である。そこに比較する性分が大きく関わっている。
 
だがこの比較の対象となっているのが、非常に曖昧なところが問題である。

他人との比較することで生まれる不幸

この比較対象を意識すると、とても適当なことがよく分かる。そして苦しみの構造が見えてくる。これでは当然苦しみを感じやすくなる。

自分に近く、目立つ人が設定されやすい

会社でも成績が優秀な同僚が比較対象となりやすい。結果「自分は何て出来ないんだろう」と愚痴をこぼしている。比較対象に選ばれやすいのは身近な存在であることが多い。あまりかけ離れていると、別物として認識され、比較対象にはなりにくい。20代のサラリーマンが60代の俳優にコンプレックスは抱かないだろう。
 
もちろんこれ自体が悪いことではない。どういった同僚がいることで競争心を燃やし、切磋琢磨できるからだ。しかし過剰に受け止めると、コンプレックスとなり、僻みとなり、精神的なプレッシャーが大きくなってしまう。
 
自分自身が感じなくても、親や友人や上司や先輩からは、身近な人と比べられて評価される。そのためこういった比較対象をもつのは当たり前だ。しかし過剰に受けると、辛いことが待ち受けている。冷静になりたいところだ。
 

根拠のない同年代に脅かされている

そして身近に実際にいる人ではなくても、僕らは比較対象をもつ。その最たるものが「同世代」だ。

 

「ハチロク世代」「ゆとり世代」「団塊世代」「バブル世代」などなど、昔から世代は必ずといっても括られてきた。それ自体には問題はない。その時代に生まれたことやその時代に受けたことは事実だからだ。問題はその世代の特徴のイメージ付けである。

 

これはメディアが大きく絡んでいて、「この世代はこういう特徴があります」「この世代でこんな有名人がいます」といったことを頻繁に発信している。自分の世代のイメージを強く僕らは抱えている。特にインターネットのメディアが普及し、同年代が集まるメディアには各人の状況が否応がなく見せつけられる。自分と同世代の人が起業していたり、テレビに取り上げられている。そういった状況を見て焦ったりすることはよくあることだ。

 

しかしこの同年代のイメージは極めて曖昧なものだ。メディアが語る世代論はわかりやすさを意識し、特徴を無理矢理ひねり出した、偏ったものがほとんどだ。その特徴に当てはまらない人は山ほどいる。キレる世代だからといって全員が全員怒りぽっくてナイフを衝動的に突き出すわけではないし、バブル世代がみんな札束に溢れた財布を持っているわけではない。当たり前だが、それに当てはめようとしている自分がいる。

 

また同年代として取り上げられる人は、成果を残したすごい人か、反対にてんでダメな人かのどちらかで極端なことが多い。それを比較対象にするのは、極めて怖いことだ。僕と同年代にはメッシや市原隼人などがいる。

 

1987年生まれの有名人!我々が最強の世代であることを証明してやる! - 数学は中二で卒業しました 1987年生まれの有名人!我々が最強の世代であることを証明してやる! - 数学は中二で卒業しました

 

または社会人になったが離職しニートをやっている同世代もいて、テレビに取り上げられていた。これを見てすごいとかダメだな、とか思うことにあまり意味は無い。たまたま彼らが同世代だっただけに過ぎないからだ。他の世代でも同様のことだ。

 

以上のことをふまえ、無意識に行っている他人との比較は幸福感の向上を阻害していることを意識すべきだ。

 

比較対象を他人から“過去の自分”にすること

ではどうすべきか。それは他人との比較から、自分との比較に"意識的"に変えることだ。

 

他人と比較したところで自体は何も変わらない。それが不幸を生んでいるのならば即刻止めるべきだ。僕らは究極的には他人には絶対にコンプレックスを持たざるを得ない。上には上がいる。県で一番になったところで、日本一がいる。日本一になっても世界一がいる。世界一になったとしても、過去の偉人を引っ張りだしたら僕らは絶対に勝てない。

 

そうしてネガティブに思うなら、過去の自分自身と比べてどうかを問題にしたい。何が出来てなくて、何が出来るようになったかとの比較には意味がある。この自分との比較にコンプレックスは生まれない。純粋な成長実感と反省が生まれる

 

こんな言葉がある。イギリスの探検家ラポックの言葉だ。あくまで他人は他人であり、自分は自分であるという割り切りが重要だ。

他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、それは恥ではない。

しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは立派な恥だ。 

 

まとめ:まずは比較していることを自覚することから

自己啓発本に書かれてあるようなことと思われるかもしれないが、より深い哲学領域と個人的には思っている。

 

また誰もが知っていることでもあるが、意識してコントロールしている人は多くはないだろう。

 

この相対感覚をもつと割と人生過ごしやすくなるのではないかと思い、書いた。個人的に仏教を学んでいるので、その影響は大分大きい。

 

もちろん口で言うほど簡単なことではない。他人との比較は性分である以上、避けることはできない。最初から過去の自分と比較し成長実感を得ることは容易いことではない。

 

だからこそ、まずは比較している性分を意識し、何と比較しているかを内省する「相対感覚」という概念を知ってもらうことが大事と思った。今もし何かネガティブな感情に支配されていたら、何と比較し自分をそう思わせているのか、目をつむって考えてみて欲しい。何か見えてくるものがあることを願うばかりだ。

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