リテラシーラボラトリ

リテラシーを考える

ネットとにわかと自由について(田村淳×猪子寿之のSWITCHインタビューより)

ドキュメンタリーがやたら好きな自分。創りだされたウソの世界ではなく、より生々しい感じに惹かれている。最近気になってよく見ているのが、以下の番組。

達人達が見ている景色、お見せします。
異なる分野で活躍する2人の“達人”が出会い、語り合う。ただし、単なる対談番組ではありません。
番組の前半と後半でゲストとインタビュアーを「スイッチ」しながら、それぞれの「仕事の極意」について語り合い、発見し合う、いわばクロス×インタビューです。(HPより)

そして田村淳×猪子寿之の回を前後編とも見た。個性溢れすぎている2人の対談はとても刺激的な内容だった。印象に残ったことを紹介したい。

強まるネットの力とその影響

PART2でインターネットで個人の発信力が高まっているという話があった。暇な人間ほど発信力を持っているのがネットだと。そしてそのネットの発信力の影響は色んなところに表れている。

テレビ番組の規制はここ10年で高まっている。「これは言ってはいけない」「ああ言って欲しい」など、そういった要請が多いらしい。そのことについて淳は番組制作側がネットの声を気にしているからだと言及した。ロケに出て色んな人の声が聴こえるゲストと違い、制作の人間は外で声を拾えない。代わりにネットの評価を気にしている。そのためネットの評価を気にした番組になっているという。

それはテレビ番組だけじゃないと指摘したのが猪子氏。一般企業も同様であるという。
たしかに最近相次ぐ異物混入事件もその一例といえる。前々からニュースで取り上げられてはいたが、その環境は大きく異なっている。ネットが普及する以前は会社への問い合わせから、ニュースに取り上げられ、消費者が知り、家族・友達・近所との会話で話題にしていた。しかし今は事件の発見もニュースの取り上げも話題にすることもすべてインターネットを通じて個人レベルでも行えるようになった。その結果、事件の発見のスピードが上がり、そして情報は一気に拡散できるようになった。株価にも影響を与える力を個人が持つようになったのだ。

そのため企業は神経質にそして保守的に動くようになるのも自然なことだ。

「にわか」を叩きたがる人たち

淳が政治番組をやるようになった理由を語る中で出た話題。日本では知識ある人ほど「にわか」を叩きたがる。そういう人ほど初めて学ぶ人が興味を持つように伝えなければならないという話だ。

これ本当にそうだなと思った。知識豊かな人が「にわか乙」といった具合に初心者をDisる構図というのはネット上で本当に見る。揚げ足をとって、批判している。もちろん間違っている情報を発信している場合はそれを訂正するのが知識ある人の役目ではあると思う。しかしその訂正の仕方がえげつないことが多い。

ブログで一生懸命発信していた人に寄せられた批判が加速し、人格否定まで発展しているケース。そしてそれが寄ってたかっての集中攻撃。その結果ブログを書くことはおろか、見ることすら辞めてしまう人がよくある。

最初は誰もが「にわか」だったことを忘れているから、こうなってしまうのか。いや覚えているからこそ過去の自分を見るような同族嫌悪からの行動なのかもしれない。何にしてもそれによるいいことは何一つない。

分かっている人が分かっていない人に分かろうと思ってもらえるように伝える努力をしていかなければならない、そう思った。

とにかく自由な2人。だけどタイプは異なる

ロンブー淳はテレビ番組によく出ている人気芸人として知られているが、そこは一面に過ぎない。彼は日本のテレビの枠を超えて様々なチャレンジをしている。特にネットの活用が半端じゃない。

Twitterのフォロワーは驚きの140万人だ。芸人に限らず著名人の中でもトップクラスだ。そして自分のホームページ「淳の休日」を展開し、テレビではできない企画を自分でやっている。(本当に自分でやっていた)

対してチームラボの猪子氏は数多くのデジタルアート作品を世に送り出している。常識にとらわれない発想で体験できるアートを制作している。本当に面白い。

一方で本人も自覚している位遅刻が多かったり、発言も過激で自由奔放だ。この番組の打ち合わせにも大分遅刻していたようだった。

それぞれ本当に自由な発想・生き方をしている。しかし、その自由のタイプはずいぶんと違うように思えた。

ロンブー淳は戦略的に自由を選んでいる。対して猪子氏は本能的に自由を選んでいる。といった違いだ。

淳は最初から自由の道を進んでいるわけではない。テレビ番組でレギュラーをとることを喜びとしていてそれをよしとしていた時代が当然最初はあった。しかし強まる規制の中で、これからの面白さを求めて、テレビの規制に囚われない表現を求めてネットにきたのだ。考えなしなわけではない、戦略的選択である。

猪子氏は大学時代から起業してデジタル×アートの組み合わせを発展させていっている。下積み時代があったわけではない。本人も「世間を知らない」と言い、それでよかったと述べている。最初から自由を選び、ここまで成功させたのだ。本能で自由を選択したといえるのではないか。

だからか、2人は武器とするものが全く違う。淳はコミュニケーション。猪子氏はアイデアである。淳はコミュニケーションで人を巻き込み、まとめて、表現する。猪子氏はアイデアで人を魅了し、動かし、表現する。

もちろん住む世界が違うから当然なのだが、自由でもここまでタイプが違うのだなとかんがえると面白い。色々な形の自由があるのだ。

まとめ:異業種の同人種を掛け合わせると、また違った何かが表れる

この番組の醍醐味は異業種の人間の組み合わせによる対談にある。そしてただの対談ではなく、それぞれの業界に歩み寄り、体験し、そして議論する。どこに話しが広がっていくのかまるで読めない。

今回の2人は異業種だが、自由という点で似ていると思った。だが、実際に議論すると異なる点は本当に多い。だから人間は面白い。誰一人として同じ人間はない。

そしてテレビ×ネット、デジタル×アートと今までにない組み合わせによる新しいものの創造。そしてそこから生まれる新しい価値観。相変わらずこの先は読めない。自由な発想がないと、ついていけなそうだ。自分なりの自由を求めたい、そう思った。

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