リテラシーラボラトリ

リテラシーを考える

「意識が高い(笑)」問題について、少し言いたい

僕は「意識が高い」とよく笑われる。それは事実だと自分でも思っているから、否定はしていない。しかし、なぜここまで言われなければいけないのだろうかともよく思う。

この「意識が高い」というテーマは、ネットだけでなく書籍化もされ、よく問われる社会問題となっている。この「意識が高い」というテーマについて、笑う側の心理について、そして特に笑われる側の精神の持ちようについてについて書きたい。

「意識が高い(笑)」と笑う人も笑われる人も一読いただければと思う。

意識が高いとは

そもそも意識が高いとは何かということだが、まさにそのもののキーワードがあったので紹介したい。

学生生活を本人なりに実りあるものにしようと頑張っているが、周りから見ると痛々しくなってしまう学生の言動を揶揄した言葉。


学生に限らず、頑張ってるけど痛々しい人を「意識が高い」というらしい。頑張ってること自体は批判されるべきことではないが、痛々しいとはどういうことか。上記キーワードの例で考えてみる。

  • サークルを立ち上げる
  • 学生団体に参加している
  • カンボジアに興味を持つ
  • 就職説明会で率先して質問するが、前置きが長い
  • 就活イベントを主催する
  • 名刺の肩書きがやたら多い
  • ベンチャー企業の経営者と名刺交換したことを自慢する
  • 海外に短期留学し「日本は捨てました」と日本のみんなにむけて発言
  • 「あー起業してー」
  • 「自分が尊敬できる奴としか話したくない」

冷静に上記の例を見ると、批判されるべきは「自慢」であったり、「上から目線」な発言に限定できる。それ以外は別に単体で見ると、悪いことでも何でもない。「カンボジアに興味を持つ」こと自体が何が悪いのだろうか。

おそらく問題と思われるのは、すべて「受け売り」だからであろう。人や本やネットから得た情報を自分が本心から思っているように振舞っている。だから痛々しいと形容されるのではないだろうか。

その点に関しては納得がいく。それは確かに痛々しいだろう。

けれど、学びとは受け売りである。そしてそれを実践したというならば、その点は評価されるべきことだ。それを痛々しいと嘲笑って、行動を抑制するのはいかがなものかと思う。そういう意味で過剰批判が目立っている気がする。本来批判されるべきところでない点も批判されているように思える。

「意識が高い」と過剰に批判される理由

そこでなぜ「意識が高い」と過剰に批判されるかを考えてみた。

  • 1. 意識と行動が伴っていないこと
  • 2. 集団と異なる点
  • 3. 単純な年代差による批判

意識と行動が伴っていないこと

これは一番分かりやすい話だ。意識が高いと言われる人は、得てしてビッグマウスが多い。

かくいう僕もその一人で「○○やります!」と言ったにも関わらず、やれなかったことがある。こういうのは信用を落とす。単純な話だ。

言うべきか言わぬべきか、もとい有言実行か不言実行かの話はあるが、この言動のズレは批判される点であることは間違いない。

集団と異なる点

個人的にはこれが一番大きいように思う。意識が高い人は得てして少数派である。普通や平安を望む人に対して、「世界を変えたい」「普通ではありたくない」と気持ちが強い人である。基本的に思考はもちろん行動が相容れない。

基本的に会話が合わないことが多い。意識が高い人は、やりたい夢や今やっている行動について積極的に話をしたい気持ちが強い。反面、それに関係ない話には弱い。最近の芸能や異性関係など、で盛り上がる場だと辛くなる。いや話せてもあまり熱が乗らない。そうなると話題によっては急に何も語れなくなってしまうのである。

基本的に集団は「多数派こそ正義」なところがあるので、意識が高い仲間が少なければ少ないほど孤立しやすい。そして孤立すると批判を受ける。そういう流れだ。

単純な年代差による批判

最後は2点目と共通することもあるが、年代差は大きい。

単純な年代差の話ではなく、育ってきた環境が違いすぎるのだ。意識が高いと言われる人たちは、いわゆるゆとり教育を受け、強いバッシングを受けて育った。加えてサブプライム危機や超就職氷河期などの問題も加わり、異常なまでに危機感をもっている。

今の大学生から聞く話でも、1年時から就職活動を考え、ボランティアサークルや学生団体を検討している学生が多いという。いわゆる「飲みサー」に入る学生は減っているのだという。

そんな彼らが必死で何かを変えようともがき、意識が高い人や本に触れようとするのは自然な流れだ。そして、そのニーズを読んで、自己啓発本やビジネス本が出回るのである。

そういった環境になれば、自然と意識が高くなる人が増えるのは当然ともいえる。なるべくしてなったのだ。

世代差がずれるとその点の思考が全く異なるため相容れない。50代が20,10代が全く異なるのはもちろん、今だと30代との違いも大きくなっているのかもしれない。そしてその世代差によって、下の世代が叩かれる土壌が生まれる。これは時代の常である。

意識が高いこと自体は問題ではない

以上の点をふまえて言いたいのは、「意識が高い人が間違っている」とか「批判する人は頭おかしい」とかではない。違いを理解し、双方ともに直すべき点は正すべきということだ。

特に意識が高い人は、早期に判断すべきことがある。それは「意識が高い」を貫くかということだ。

「意識が高い」ということは過剰なまでの批判はおいておいても、批判され続けるポジションであることは間違いない。基本的には異端であり、変人だからだ。学生時代の受け売りだけでやっていくには、大分辛い。もし多数派にあわせられるなら、そちらに入るのが一番いい道だろう。

しかし、「迎合できない、したくない」というのもまたひとつの判断として懸命だ。基本的に「何か」を成し遂げる以上、意識の高さはともかくとして、人と異なる立場にいなければならない。それをしたいのならば、批判を覚悟の上であり続けていい。

中国で頑張られている加藤嘉一さんの本を先日読んだが、そこでは、日本では嫌がられる意識が高い議論も、北京大学やハーバード大学だったら本気でできると仰っていた。ところ変われば、状況も変わるのである。

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まとめ:批判されて辛いなら、自分か環境を変えよう

意識が高い人はもちろん問題が多く、改善しなければいけない点は多い。しかし批判する側はよいかもしれないが、批判される側は基本的に若干の理不尽さを感じていることだろう。それが結果的に精神の病につながることだってあるのだ。

偉そうにも意識が高い人の処方箋をあげさせていただく。単純だが、2つある。

  • 己を変える
  • 環境を変える


己を変えるというのは、行動をして成果を出すことだ。

批判する人を黙らせる最も効果的な方法は、目に見える形で成果を出すことだ。一般的に評価されるものを出した瞬間、急に味方が増える。それでも攻撃してくる人がいても、今度は多数決の原理が逆に働き、攻撃側が批判されることになる。世の中そんなものだ。だから成果が出るまで、ひたすら行動をする。それしかない。

あるいは環境を変えることもまた有効な手だ。

できるだけ「理解者」を増やすのがよい。「意識が高い(笑)」とあざ笑う人ではなく、本気で議論をしてくれる仲間だ。そういう人を多く持てた人は強い。そういう意味で先ほどの加藤さんの言われるように、海外に出るのもまた一つの手だろう。

逆に仲間がおらず、厳しい批判にさらされる環境下にずっと身を置くのはあまりにも危険だ。どんなに強い人でも精神的に崩れる。それは間違いない。であれば「逃げた」と批判されてもいいから、脱出すべきである。戦う覚悟も必要だけど、逃げる勇気もまた大事だ。精神を病むくらいなら、よっぽどだ。

あまりこう言ってくれる人がいないので、自分なりの考えを述べさせていただいた。これもまた色々な意見があるだろうが、こういう意見もあってもよいのではと思い、書いた。ご意見あれば頂戴したい。

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