リテラシーラボラトリ

リテラシーを考える

コミュ力は「技術」ではなく、「経験」でしかない

「経験」からしか「技術」は生まれない。この記事を読んで、本当にそう思った。

長年孤立して生きてきたから,今更勉強以外のことをしようとしても,何をすればいいのかわからない.何がしたいのかもわからない.
コミュニケーションの取り方も,当然わからない.
さて,これからどうしよう.

この人は、コミュニケーションを上手くできるようになるために、勉強してきた人だ。成績優秀になり、人から声をかけてもらうことを目指した。しかし、人から声をかけられることはなく、大学院を迎え、コミュニケーションができないことによる将来の不安にさいなまされている。

これが実話かフィクションかはともかくとして、この手の話は実際に多い。ここまで重度でなくても、軽い話だったらいくらでもあるだろう。


コミュ力問題の最大の原因は

この人のコミュ力問題の最大の原因は、圧倒的なコミュニケーションの量不足である。

コミュニケーションしたいという願望はありながらも、「人から声をかけてもらう」という完全なる受け身になってしまったことは、とてもネガティブなことだ。声をかけない周りにも、一定の責任はあるが、それを言ってしまったら何も変わらない。自ら能動的に動いたか、が大事である。

この記事の人が取るべき行動というのは、「ゲームができなくても」「スポーツができなくても」「話が面白くなくても」コミュニケーションをする。それだけだった。

話が上手い人に憧れる気持ちは、とてもよく分かる。しかし、ゲームができるから、スポーツができるから、話が面白いのではない。あくまでそれはネタの一つでしかなく、出来ない人でも話が面白い人は多くいる。もちろん、小学生などでは出来る人が注目されやすいが、そういうことではないのだ。

話が出来る人というのは、出来る以前に話を多くしている。それは家庭でもそうだろうし、学校でもあるいは部活でもきっとしているだろう。そういう意味で、この記事の人はあまり話をする機会がない家庭で育ったのではないだろうか。そうすると物静かになりやすい。そして学校でも勉強だけに撃ちこめば、それはもうコミュニケーションをすることはないだろう。

それが積み重なり、大学院を迎えてしまったら、コミュニケーション量の少なさは非常に大きなリスクになってしまっていることだろう。

ここで、大学院になった今でも一発逆転できるスキルがあればいいが、そんなものはない。とにかく自らコミュニケーションをすることだけだ。非情なようだけれど、それ以外ありえない。

なぜ体育会系の人は話が出来る人が多いか

僕自身もそんなにコミュニケーションに自信がある方ではない。世の中、僕なんかより圧倒的に話ができる人はたくさんいる。

そういう話が出来る人に共通することの一つとして、体育会系の部活に所属していた人は強いなと思う。運動系の部活に所属していた人たちは、厳しい上下関係の中で、相手に合わせたコミュニケーションというのを徹底的にしまくってきている。というかしないと生き残れない。そんな中でコミュ力が磨かれてくる。

対して大した部活もやらずに、人間関係の煩わしさを嫌い、帰宅部をやっちゃっていた僕のような人間は、コミュ力がない人が多いのではないだろうか。それは彼らに比較するとコミュニケーション量で遥かに劣るからだ。幸い友達と話すことは多かったけれど、同年代で気心知れた人だから、緊張感のないコミュニケーションだ。それは経験値としては低い。これは技術とか以前に、やはり量そして、相手の多様さといった質が勝負を分けている。

あとは恋愛経験の豊富さも言うまでもないだろう。異性という考え方の全く違う相手とどれだけ話をしてきたかもコミュニケーションの経験値を積むには十分すぎる。

コミュニケーション能力、いわゆる「コミュ力」は、生まれ持った天性とかそんなものではない。生まれてから、どれだけ色んな人と会話をしてきたか、それに尽きる。技術なんてものは後づけで、コミュニケーションをして、ボロクソに失敗した経験を通して、身に付けるものだ。「あの人にあのタイミングで声かけたらいけないな」「ああいうタイプの人に、こういったことは言ってはいけないのか」など、それは生まれ持って肌感覚でつかめるものではなく、経験から生まれるものでしかない。

「人と上手くコミュニケーションできる5つのコツ」とかそういう類の情報を、頭に入れたところで、実践で言葉をその通りに発することはできない。コミュニケーションの経験がないからだ。

まとめ:スキル以前に量と質を考えるべき

コミュニケーション・スキルを問題にしなければならないのは、ある程度のコミュニケーションがある人が、非情に難易度が高い相手を前に、ある目的を果たすために交渉しなければならない時くらいだ。普通の人は、そんなことを考えず、失敗してもいいからぶつかることが大事だ。

ところがスキルを問題にして、受け身になってしまうことが多い。そうするとクセになってしまう。そのクセはやがて性格として固定化され、人を寄せ付けにくい人間となってしまう。そうして、コミュニケーション機会がなくなるのだ。

だから、コミュニケーション・スキルなんてどうでもいいと割りきって、ぶつかっていかなければならない。コミュニケーションは武道であり、経験なのだから。

コミュ力は身につけて絶対に損しない人間としてのスキル。これを磨くためにも、自分と全く異なるクラスタの人など様々な人と話をする積極さが求められる。

ぶつかっても失敗しても、別に死にはしない。むしろぶつからず、モヤモヤ抱えている方がよっぽど辛いぞと、自戒をこめて。

参考

上の記事を読んで、前に書いた記事を思い出した。

問われるべきは、「いかにコミュニケーションがうまくなるか」ではなく、「どれくらいコミュニケーションをしているか」

便利ゆえにリアルでのコミュニケーションが少なくなった今は、コミュニケーション量を増やす教育が必要な時代なんじゃないでしょうか。

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