悩み多き1年間だったからこそ(2014年の振り返り)
2014年を振り返った時に最初に思い浮かぶことは、ただただ「悩んだ」ということ。前進したという実感よりも、色んな未来の可能性を考え、足を止めていた時間が多かった気がする。未だ青臭さを捨てきれていない自分だなと実感する1年間だった。
しかしこの悩みが無駄とは思っていない。悩んだ分だけ、次の決断と行動が重くなると信じているからだ。
そこで次に迎える2015年の自分のための糧とするために、振り返りたい。じゃないと、2015年を迎えられないような気がする。
ヒトから見たら青臭い情けない話かもしれないが、当人にとっては真面目な話だ。最近ブログに書けなかった分を、年の最後に書いておきたい。
2014年、僕は何に悩んでいたのだろうか。
自分の特性について
他の人と同じにはなれない、若干ズレているなとは前から思っていた。人に合わせるのは苦手だし、何より嫌いだった。人がAしてるならBがしたくなる、天邪鬼な性格だなとは思っていた。
これまで上手く自分の特性を定義できなかった。何が出来るのか、何が向いているのか、あるいは何が出来ず、何に適性がないのか。全然見えなかった。2014年はそれに対峙する時間が長かったし、何より本気で見つめていたと思う。
悩む過程で一番大きかった発見は、発達障害の情報に触れた時である。
驚いた。ADHDやアスペルガー症候群といった症状と自分の抱えてきた問題がとても似通っていたからだ。ADHDの主要な特徴である多動性、衝動性、不注意やアスペルガー症候群に起きうるコミュニケーション障害など、あるあると思うものばかりだった。これらの情報を読んだ時、愕然としたというよりは、納得ができた。そして定義できるものを知って、ある種安堵したのだった。
もちろん正式に検査したわけでもないし、発達障害の定義は日常生活又は社会生活に支障が出る場合だから、それでいうと当てはまるわけではない。いわゆる白・黒でもないパステルカラーだと思う。ただ自己の特性を定義できるものを持てたことは一つの大きな収穫だった。
障害と言われるくらいだからネガティブな側面が強調されがちだが、その特性を活かせば健常の人にはできない特殊な成果を出せることも知った。成功してきた人にも多くいるらしい。
自己啓発本が語る「他の人と違っていい」という言葉は浅いが、医学的見地から「他の人と違うべき」の言葉は重かった。僕のような人間こそ、他の人と合わせて迎合するのではなく、自分の生き方を追求したほうがよいと知った。自身の幸福を求めないといけない。
よくある根性論で(他の人と同じように)頑張れよと言われても、同じように頑張ることが僕には難しい。頑張ってないわけじゃなく、皆頑張ってる。ただ頑張り方は他の人達と必ずしも合わせる必要はない。自分らしい生き方で頑張るべき、と強く思った。
個人の特性が多様化された現代において、生き方も多様化されるべきだ。
自分のやりたいことについて
特性と合わせて考えたことが「自分が一体何をやりたいのか」ということ。これもよくある悩みだと思う。数年付き合ってる悩みだが、大分見えてきた気がする。遅いけどね。
色んな本や情報にあたった中でインパクトが大きかったのは、NPOを立ち上げた新進の社会起業家たちの存在だ。育て上げネットやフローレンス、Teach For Japanについては関連書籍はほとんど読んだ。こうした社会起業家の存在が東日本大震災以後、注目されている。
営利を追求することではなく、社会課題の解決が団体の存在意義である。営利を追求した結果、腐った活動をする企業をメディアで多く見る一方で、社会貢献をするNPOを見たとき胸を熱くさせるものを感じた。
もちろん社会貢献を謳う彼らの団体存続は簡単なことではない。しかし民法第34条の法改正も進み、団体継続のノウハウも出回ってきて、社会起業のハードルは下がりつつある。またニーズも高まる一方だ。
社会起業家関連の書籍を読んでいた中で出会った言葉に
気づいたものの責任
というものがある。
現代の日本や世界には様々な社会課題が溢れている。発展途上国での飢餓やエイズ、若年層の就労問題や震災地の被災者へのメンタルケア、病児保育などなど、あげればキリがないほどに。身近に存在するそれらの社会課題を解決するのは国か企業がなされるべきかもしれないが、あまりにも社会課題が多様化した現在彼らも手が届いていない。立ち上がる人がいなければ解決しないのだ。
なぜこういったことをやらないのだろう、と文句を言っていても事態は何も変わらない。気づいたら動く、それが気づいたものの責任である。その一つの手段がNPO設立だが、個人で動いてもいいし、NPOにプロボノとして参加するでもよし、色んな形で責任は果たせる。
2014年、いやそれまでもふつふつと感じてきた社会課題がある。それは
インターネット・リテラシーの格差
である。
インターネットを上手く活用出来る人と出来ない人の格差が生まれている。欲しい情報を検索して手に入れることや、炎上をしないよう上手に情報発信すること、アカウントの乗っ取りといったセキュリティ対策などが当たり前に出来る人と出来ない人が生まれつつある。
そして今後インターネットが更に普及し、スマホやタブレット(あるいはスマートテレビを通じて)現在のインターネット人口がよりアクティブになっていく。しかしそういった人向けにインターネットの使い方を教える場所は果たしてあるだろうか。企業はその責任を果たしているか。学校では教えてくれるか。過程で懇切丁寧に説明してくれているのか。すべては不十分のように感じている。
これらをサポートするものを僕は未だ知らない。自ら学び高める人はどんどん高められるが、知らない人は使い方を知らないまま堕ちていく。そしてインターネットリテラシーの差が、情報格差を生み、富の格差が生み、生きづらさを創出する。
いかにこの問題を解決できるのか、そのために本格的に動くのが来年としたい。
まとめ:次のための悩みと思えるように
割と赤裸々に書いた。読んで誰かが得するものでもないし、マイナスなイメージを与えるかもしれない。しかし自分が前に進むために必要なことだと重い、自己満足的に書いた記事である。
青臭いと言われればその通りだし、否定するつもりもない。これが自分だ。青臭さを笑われるのを恐れて、ブログの更新が滞っていた。しかしそれだと何も変わらない。人と違うことにビビらず、突き進みたい。
悩み多き1年だったからこそ、次の飛躍へつなげていく。
2014年、ありがとう。そして、さようなら。
今週のお題「2014年のお別れ」〈2014年をふりかえる 3〉